今月の豊島ゼミのお知らせです。
□日程
10:20 豊島(家浦港)高速艇乗降場 集合
砂川さんナビゲートによる豊島事件現場視察
12 : 30〜14:00 泉屋にて昼食
残りの時間 自由時間(甲生地区の散歩、泉屋でワイン、お昼寝、読書、茶室でお茶、首なし地蔵お参りetc)
15 : 00 家浦港 解散
□参加費
産廃施設視察代(ガイド・資料代) 2,000円
昼食 豊島中華(飲み物はオプション) 1,000円
合計 3,000円
◆ご確認ください。
アーキペラゴゼミの集合解散場所は豊島の家浦港になります。
スタッフが、家浦港の高速艇を降船されたところでお待ちしております。
お気をつけておこしください。
■お申込方法■
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・参加者名
・電話番号(当日連絡が取れる携帯番号など)
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を明記の上
◎NPO法人アーキペラゴ
T :087-811-7707
M:info@archipelago.or.jp
1月19 日(金)までにご連絡ください。
また以下、豊島ゼミのコーディネーターである栗生さんのブログより。
砂川さん、豊島ゼミに対する想いをご紹介。
私が豊島と初めて出会ったのは、2007年の9月12日のこと。
シブヤ大学の郊外学習プログラムに新しく「瀬戸内の島を教室にして、島の人を先生にする授業」を作ることになり、かねてよりシブヤ大学の理事と親交のあった三井文博さん(現・NPO法アーキペラゴ理事長)に相談があり、三井さんのお誘いによって、大学の本拠地である東京・渋谷と島々の間の母港高松で、コーディネーターをさせていただくことになり、その試作的授業(10月27日・28日実施)の内容を決めるための初上陸でした。
この時のシブヤ大学多島海ツーリズムの教室は、小豆島・男木島・直島、そして豊島。コーディネーターとしてツアー作成に臨むことになったのは、私を含めて4人でした。
ここでシブ大の人に「栗生さんはどの島がいいですか?」と(きっと歳の順に)聞かれて私はあまり考える時間もなさそうだったので、とっさに「行ったことないのが豊島だけです。この際私も豊島を勉強したいので、豊島にします」と答えたのです。
そこからが、私と豊島のご縁の始まりでした(今思えば)。
この日は、チャーター船の手配から、現地での産廃現場視察の予約などを全部片山明子さんがやってくれました。
不法投棄現場のガイドをできる豊島住民は現在5人在籍しているということですが、片山さんが引いてくれた「砂川さん」が、後に人生の師となることを考えると、三井さんと片山明子さんは私の恩人ということになります。
チャーター船が豊島家浦港着岸、上陸。
このときに我々を、仏様のような笑顔で迎えてくれたのが、その砂川三男さん(元廃棄物豊島住民会議元議長)でした。
「よお、来てくれましたな」「年寄りのしょうもない話を、聞きにきてくれてありがとう」
暖かく謙虚な言葉がはさまれながら、不法投棄現場の「心の資料館」というところで、砂川さんの話は始まりました。
次第に、それまでに自分の中にあったと思われる、豊島への偏見、生半可な知識がどんどん剥がれ落ちて、涙に変わっていきました。
不法投棄開始が1970年代。1990年に兵庫県警によって不法投棄が摘発されるまで、どうしてあんなになるまでほっといたのか
という質問が、豊島のことをあまり知らない人から聞こえることがありますが、
豊島住民は、不法投棄が始まった直後から、県庁への通報・相談、運動を始めていたことを知ります。
住民に落ち度はなかった。(あったとしたら、行政機関をお上=悪いようにはしないはず、と信じた「人の好さ」だけ)
本来なら、監督行政を行って、不法投棄を止めなければならない県庁職員が、不法投棄を続けたい業者のいいなりになり、住民運動を抑えるために偽りの「安全白書」まで作っていた事実。
2000年6月に公害調停が成立し、当時の知事が涙を流しながら、末期のガンと戦いながら住民運動の先頭に立っていた安岐登志一議長と握手をし、住民に謝罪したその翌年に、問題をここまで巨大化させた県庁担当者の上司にあたる人が、環境省から表彰状を贈られていたという事実。
中坊公平弁護士との出会い、弁護士が1000万円という身銭を切ってまで、訴訟の費用を助けてくれたということ。
県庁の職員や香川県民に、「今、おなじ香川県の中で、こんなことが起こっている」ということを知ってもらうために、島の年配者(平均年齢70歳)が決意した、「県庁前のたちっぱなし抗議」のこと。
砂川さんたち、「たちっぱなし年寄隊」が、晩秋から翌年の3月くらいまでの半年間の間、まだ高速艇がなかったため、宇野や土庄でフェリーを乗り継ぎ、2時間かけて高松に上陸し、県庁の始業時間の8時半から午後5時半まで、5人交代で、寒風ふきすさぶ県庁前の道路(中には入れてもらえなかった)毎日に立ったときの話。凍えながら立っているところに、老人車を押したおばあさんが近寄ってきて、暖かい甘酒の缶を5つ買って一人一人に渡されたときに、「わしら、この甘酒は、よー飲まんの。ありがたくて。。」と誰も缶を開けずに、懐に入れて持って帰った話。
心の資料館に貼られた500人余の調停の原告人名簿、そしてところどころ、その名前の横につけられた黒いリボン。。
etc..
あのとき、豊島の人たちがわが身を顧みずに立ち上がっていなかったら、今、瀬戸内海は、とんでもないことになっていたと想像ができる話。
1時間半に亘る砂川さんの話はあっとう間に終わったと思えるくらい内容が濃くて、熱くて、悲しくて、怒りが込み上げて、そしていろいろな感情で体が震えました。
そして、次の瞬間、豊島事件に興味を持ったことがなかった自分は、きっと県庁での砂川さん達のたちっぱなしをしらんぷりして通りすぎてた県民の一人だったに違いないと思い、
恥ずかしくなったのです。
砂川さんは、当時すでに御年80歳いなっておられたのに、ものすごい記憶力と高い言語能力に加えて、その場その場で臨機応変に対応できる柔軟ささえ持つ、凄い方です。
そのうえ、お人柄は、まるで、冬の陽だまりのような温かい人。
それからというもの、私は、理由をつけては豊島に渡り、砂川さんの顔を見にいくようになりました。そして、自分は、まずは香川県に住んでいる人で、この事件を、闘った当事者の口から聞く・知る人を一人でも増やす努力をしよう、といつしか決意していました。
その後、いろいろなことをして(たとえば、こんなツアー、たとえばこんなことをして現在に至りますが、いまは、毎月第4日曜日を、「砂川三男元議長の話を豊島で聴いてもらう日」と定め、これを「豊島ゼミ」と称して、ほそぼそとツアーを続けています。
様々な人生経験を積んだ年配者は、社会の宝ものだと思っています。
砂川さんに限らず。
順番からいえば先に、旅立つことになるこの人たちの話を、直接、生で聴き、どんどん記録して、記憶して、人生に書き込んでいくということを、今年は、とてもやりたいと思っています。
豊島ゼミは、このなかの一つの企画です。
一人でも多くの方のご参加を、お待ちしています。