瀬戸内国際芸術祭2016の春会期が終わり、あと2ヶ月ほどで夏会期が始まります。
男木島で『KALEIDOSCOPE Black and White』という作品を展示している川島猛先生のお話のご紹介。
お伝えしたいことが盛りだくさんで上手くまとまらないので
<少年期~東京に行くまで>と<渡米~現在>に分けてご紹介します。
1930年1月、川島猛先生は香川県高松市で農家の長男として生まれました。今年、86歳。
小学校の頃から絵が上手で絵描きになりた川島先生。
「絵を描くように、熱心に勉強すれば成績があがりますよ」
という担任の先生の一言で、お父様が絵を描かせてくれなくなったそうです。それでも隠れて描いていた絵が見つかって、お風呂を沸かすのに使われたので、そのころの絵は残っていないとか。
1943年、13歳で香川県立高松工業学校(現香川県立高松工芸高等学校)の航空機科に入学。
終戦の翌年、1946年に航空機科が廃止。機械科へ。
航空機科と機械科でデバイダーやコンパスを使っていたから今みたいな絵になったのかも、という川島先生。人の命に関わる飛行機の設計をしていたこともあり、ひらめきや思いつきで絵を描くことができないそうです。
卒業後はあらゆる技術を身に付けるためにいろんなことをしたり、山田等絵画研究所に通ってヌードデッサンを戦いのように描いたり、上京するために瀬戸内海を始め屋島・五剣山・八栗の絵を描いていたそうです。
1951年、21歳で上京。
絵を描くことに一番燃えていた時代。人が大好きな川島先生は待ちで見かける人物の絵をたくさん描いたそうです。工芸の校長だった小倉右一郎先生の『小倉アトリエ』に下宿したり憧れだった猪熊源一郎先生にもかわいがってもらっていた頃です。
1954年、24歳で武蔵野美術専門学校油絵科に入学。
1955年、25歳の時には高松三越ギャラリーで個展開催。
このころから、絵を描くことに大反対だったお父様も応援してくれるようになったそうです。
1956年、26歳で武蔵野美術専門学校を辞めて人体専門代々木絵画研究所へ入所。
ここは裸婦の研究所で、研究員兼用務員として入られました。
ごつっとして定規で描けるような男の人ではなく、ものすごく変化のある女の人の体の方が勉強になるから裸婦を描いていたそうです。
1959年、29歳。お父様の支援で三鷹市に『三鷹台アトリエ』を開設。
「絵を描きたくて描きたくて、発表したあと作品をおいておくと描く場所がなくなるから全部捨てていた」というほどだったそうです。
ここまでが渡米までのお話。