川島猛少年が青年になり、東京に行くまでを先にご紹介しましたが、
今回はその続き、渡米してからのお話です。
1959年10月、33歳で渡米。
アメリカが美術界でパリを追い越して世界をリードしていたころ。
NYの影響を受けないよう、いろいろ観て回る前にたくさん絵を描いたそうです。
この頃描いたのが『Red and Black』。
2x3mのキャンバスを格子でしきり、一つ一つの枠の中に異なるエロティックで有機的なフォルムが描かれています。日本の紋章を思い起こす絵はNYの画壇で一躍注目されることに。
川島先生は「紋章」というつもりはなく、次々できる団地の同じように見える窓の奥にそれぞれのドラマがあるだろう、と思ってできたそうです。
1965年、35歳。NY近代美術館(MoMA)の展覧会『The New Japanese Painting and Sculpture』に展示。
『Red and Black』がパーマネントコレクション(永久所蔵品)となります。
1967年、37歳で57丁目のワーデル・ギャラリーで最初の個展を開催。
1971年、41歳。
渡米後初の回顧展を香川県文化会館、南天子画廊、ピナール画廊で開催。
母校の高松工芸高等学校で講演会を実施。
1972年、42歳。順子さんと結婚。
この頃から『Red and Black』シリーズとは異なり、淡い色やさまざまな色を使うようになったそうです。
1979年、49歳。
ワールドトレードセンターでNY在住の日本人と日系人の現代アーティストたちの展覧会『WINDOWS ON THE EAST』を開催。
発表作品は『Blue and White』。
その後、1980年代のDream Landへ続きます。
「自分は今を生きるアーティストだから現実の楽園を描きたい」と始まったDream Land。
青色を基調にしつつも、さまざまな色やタッチ、木の板、切片、石などの素材を用いた作品や、石の彫刻を制作していたそうです。
2001年9月11日、71歳。
9.11で近代文明を象徴するかのような建物が崩れ落ちました。
ワールドトレードセンターの近くに住んでいて、散歩コースでもあったそうです。
川島先生も順子さんもしばらく何も考えられない日々が続き、川島先生は絵を描くことも、外に出ることもできず。翌年に香川で展覧会をすることが決まっていたけど9.11の衝撃で作品ができない川島先生は家に会った材木で毎日本棚を作っていたそうです。
またロール紙に向かい出したものの、大きな筆で一気に大胆に、いろんな色を使って描いていたそれまでの絵に比べ、墨だけで小さいものをたくさん描くようになったそうです。
それはまるで落ちてくる人のようにも見えたとか。
半年ほどそんな状態が続き、少しずつ元気が出てきた2002年3月ごろ。
展覧会のための絵を描き始めました。かつてのアシスタントにもNYに来てもらい、数ヶ月で40点以上の作品を作り上げたそうです。
「現実の楽園を描きたい」と書き始めたDream Landが崩壊し、いきなり変わってしまった。いつ何が起こるかわからない。たしかなものはなく常に変わっていくものなのだ。
そこで出てきた言葉が『千変万化-万華-KALEIDOSCOPE』だったそうです。
何の説明もしなかった墨一色で描いたロール紙を見て涙する人がいたそうです。
このロール紙が『KALEIDOSCOPE』の始まりだったようです。
日本での展示が終わり、NYへ戻った川島先生がアトリエにこもって描き始めたのが
『KALEIDOSCOPE Black and White』。
今年2月の帰国前日の夜まで描いていたそうです。
これまでさまざまな表現方法でマテリアルにもこだわり、大作を制作してきた川島先生でしたが、四方1m足らずの白い紙に黒いマーカーで描きました。
表現も素材も複雑なものをそぎ落とした黒と白の世界。
有機的なフォルムが多様に交差し、無限に広がっています。
2016年2月8日。86歳の川島先生は50年以上のNY生活を終え、故郷香川に戻ってきました。
瀬戸内国際芸術祭2016の展示は、川島先生が2003年から13年間NYで描いた370点の『KALEIDOSCOPE』を異なったマテリアルに実物大でプリントし、家中に張り巡らせました。
そこに川島先生が新たに描き加え、仕上げていきました。
中央に展示している8枚のパネルはNYで描いた直筆のものです。
「瀬戸内国際芸術祭に参加し、
男木島を再び訪れたことで、
青春時代、島々を歩き、
多くの絵を描いたことを思い出しました。
瀬戸内海の美しさに、改めて心を動かされ、
故郷へ戻ることを決意。
今年2月8日、高松へ戻ってきました。
川島 猛」