アーキペラゴゼミ 豊島編

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アーキペラゴゼミ 豊島編

豊島事件は約50万トンに及ぶ廃棄物が豊島に持ち込まれた摘発当時(1990年)日本最大規模の不法投棄事件であった。講師に廃棄物対策豊島住民会議元議長の砂川三男さんを招き、島に住んでいた方の視点から豊島問題を考え、豊島の人たちが、命をかけて守ろうとしたものは何なのか、だったら、自分が守りたい大切なものは何なのかを考えることにより、きっと心が熱くなるものを持って帰ってもらえる一日となるでしょう。


豊島産廃事件とは
What is Teshima case?

1975年に1人の事業者によって始まった豊島の一部海岸への不法投棄。不法投棄直後から豊島住民は立ち上がり住民運動を展開するも県行政は微動だにしなかった。対岸の兵庫県の県警が、瀬戸内海の島から黙々と立ち上がる黒い煙を不審に思い、独自の捜査を展開し、1990年、兵庫県警により不法投棄を続けていた事業者が摘発された。当時の兵庫県警本部長はあの國松長官であった。これにより、ようやく廃棄物の持ち込みは止まった。しかし残された廃棄物撤去の責任をめぐり豊島住民は1993年、香川県を相手に公害調停の申請を行った。その後、様々な形での血のにじむような独自の住民運動が展開され、全国・世界からも協力者も得て、ついに2000年、香川県知事の謝罪とともに公害調停の成立を迎え、ようやく廃棄物の処理がスタートした。一応の決着までに25年という長い月日に渡った豊島産廃問題。

すべての処理にはまだ時間がかかるとされる。

  • ※2011年処理対象量が想定より20万~23万7千トン大幅に増え処理終了が当初の計画期間(24年度末)より3年6カ月延びて28年9月になる見込みとなった

講師
Instructor



砂川三男さん
廃棄物対策豊島住民会議 元議長
豊島生まれ
1975年の豊島産業廃棄物不法投棄事件勃発時より島民の先頭に立って長年行政の厚い壁と戦い抜き、最終合意に導いた長老の一人。島民の声を県政に伝えるために「無謀だ」といわれた県議選に、命がけで石井とおる氏を擁立した勝手連の首謀メンバーでもある。
最終合意が得られた後、住民は県と町の主導で資料館を建設しようとした。
この際に、長年ともに闘った中坊公平氏から「行政依存の安易な考えで資料館を造る事は人間廃棄物として世にさらけ出す事だ。学びの島として再生する事は至極の技だ。人の心を揺り動かせるだけの情熱がなければできず、出来たとしても誰も来ない島になろう。」と叱咤を受けた。そのとき、「自分は死ぬまで、産廃の歴史を伝えていこう」と決心したという。「世の人に大変な支援を受けた。その人たちのためにも伝え続けていかんとと思います」その想いから「枕から頭が離れている間はみんなの役に立ちたい」と86歳になった今でも参産廃見学ツアーのガイドを引き受けて下さっている。

ゼミ内容
Content

産業廃棄物不法投棄現場視察2007年秋、豊島に初上陸した私達を出迎えてくれたのは、今年86歳になる長老砂川三男氏であった。何万年もの昔から人が生活を営むことのできた島、穏やかな気候と万物の宿る檀山の水を湛える土壌に恵まれた「何でも育つ」豊かな島、は豊島の人々の誇りだった。その島のなかでも最も美しい海岸が、一人のならず者がある日島に持ち込み始めたゴミによって瞬く間に60万トンもの異臭を放つゴミの山となり、シュレッダーダストを燃やす黒い煙は香川県庁の窓からも瀬戸内海の向こうにはっきりと見えるほどの惨状であったという。

豊島住民はゴミが持ち込まれた直後より反対運動を開始した。戦いの相手は、結局、ならず者の暴挙を認めて偽りの「安全白書」まで出しながら逃げきろうとした県に移るが、立ちはだかる行政の厚い壁を乗り越えることは誰の目にも不可能に見えた。しかし島民たちの全身全霊での長年にわたる無私の戦いは、反骨の弁護士中坊氏をはじめとした日本国内外の注目と協力者を集め、歴史的にも稀有な奇跡的な勝利を治めた。

このツアーでは、住民運動を率いたリーダーの一人である砂川三男氏による、豊島の戦いの歴史を聞いていただきます。静かな静かな長老の語りは、自然に私達を共感させ、魂をゆさぶらせ、やがて「同じ県の人たちがこんなに長い間こんなに苦しんで戦っていたこと」を知る自分と向き合わせ、「これからどう生きるべきか」という問いに繋がるかもしれません。

※詳しくは、毎月の募集ページをご参照ください。


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